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活動報告

■カーネギー・ホールで「第九」をうたった 障害者たちの合唱団

 (2000年6月20日 毎日新聞)
 平和を願う歌声が、ホールいっぱいに響き渡った。
 東京都豊島区の福祉施設「ゆきわりそう」に通う障害者や家族、介助者を中心とした約350人の合唱団が、米・ニューヨーク市のカーネギー・ホールでベートーベンの「第九」コンサートを開いた。テープを聴きながら「音」で歌詞を覚えた人がいる。投げ出したくなる気持ちを支えあった二人組みも。約2000人の聴衆からの拍手は、人生に立ち向かう自信になった。
 
 東京都東村山市の稲毛義幸さん(38)は、帰国した今でもあの世の感動がはっきりとよいがえってくる。五月三十一日、重度の脳性まひで体が不自由な義幸さんは、21人の車いす仲間とステージにいた。
 フィナーレの「歓喜の歌」が終わった瞬間、熱い思いがこみ上げてきた。涙が止まらない。「おー、おー」と叫びながら、仲間と手を取りあっ下喜びを分かち合った。「音楽の殿堂カーネギー・ホールで、本当に歌ったんだ」
 「ニューヨーク・シンフォニック・アンサンブル」を率いてタクトを振った音楽監督の高原守さん(53)も興奮していた。 「よかった、よかった。いい声が出たよ」と義幸さんらの肩をたたいた。 そんな光景を見て母親の佳子さん(64)も、胸がいっぱいだった。

 8年前おやこで合唱団入り。晴れのステージを目指して練習を続けた。二人は車で片道1時間以上かけて豊島区の練習所へ通い続けた。
 障害で声が出にくいメンバーのために特別につくられた低い音域のパートで、義幸さんはメロディーを覚えた。ひまがあると自宅で「第九」のテープを聴いて、発声練習を積んだという。
 佳子さんは、ドイツ語の歌詞が覚えられず、苦しんだ。意味は十分分からなかったが、「音」で暗記した。「あの夜の経験は、これからの(義幸の)人生にすごいプラスになると思います」としみじみ話す。
 足立区の通所授産施設「綾瀬あかしあ園」で働く市川光江さん(34)と佐藤隆志さん(35)も、ステージの興奮が忘れられない。脳性まひで共に車いすの生活だ。
 「私たち、本当にやったんだよね」。仕事の合間に今も時々、二人で話す。ほかの仲間たちが自分のことにように喜んでくれた。それが、何よりもうれしい。練習は日曜日のため自由時間もない日々だった。声のよく出ない隆志さんがくじけそうになると、光江さんは励まし続けた。

 初の海外旅行でもあった。「ステージ以外でも多くを学びました。ニューヨークでは周りの目を気にせずに自由に歩けた」と光江さんはいう。
 山梨県牧丘町の池谷喜久子さん(69)の半生は、苦難に満ちている。44歳で失明した。それが原因で前夫と離婚。自立を目指して盲学校で勉強し、51歳で鍼灸師の資格を得て開業した。
 「悲壮感はなかったわ。盲学校の先生は良くしてくれたし、仲間も大勢いる」。合唱が生きがいである。中途失明で点字が読めないので、テープを聴いて歌詞を覚えた。「カセットは手放さない。トイレでもお風呂でも聞いていたわ」
 開演前はガチガチだった。それでも、盲導犬マリナと舞台に上がると、思いきり大きな声が出せた。「2年前の練習を17分で完全燃焼したわ」。拍手とブラボーに体が震えた。「夢じゃないかと、思わずほおをなでたの」。気持ちよく送り出してくれた夫への感謝も忘れない。
 合唱団代表の姥山寛代さん(65)はいう。「あの夜の感動は、これから生活に自信となって輝いていくでしょう。」


 平和願い国連職員も参加

 ニューヨークで開かれた「今、私たちのために歌う第九コンサート」(朝日新聞社、東京都など後援)は、東京都豊島区の地域福祉施設「ゆきわりそう」の「私たちは心で歌う目で歌う合唱団」が企画した。「京都命輝け第九合唱団」やニューヨーク在住の「はなみずき」など日本人の6コーラスグループも加わった。
 ニューヨーク公演は、合唱指導をしていた声楽家の新田光信さんが、1998年5月、45歳の若さで急死したのがきっかけだった。
 「ゆきわりそう」代表で、今回の合唱団の代表でもある姥山寛代さんが、「国連のあるニューヨークで平和への願いを込めたコンサートを開きたい。それがクリスチャンだった新田さんの遺志」と考えた。98年夏、「国連職員合唱団」から共演OKの返事をもらい、5月31日カーネギー・ホールでのコンサートが実現した。
 「ゆきわりそう」は、「障害のある人が音楽を通して社会とのふれあい、生きる喜びと自信を持ってほしい」との願いから「第九」の練習を続けてきた。93年ベートーベンの故郷ドイツ・ボン市、95年ニュージーランド・オークランド市で現地の合唱団の協力を得て公演をしてきた。